「完全な量子コンピュータ」を待つ必要はないかもしれない ── 部分的誤り耐性がもたらす量子実用化の前倒しシナリオ
量子コンピュータの実用化について、ビジネスの世界ではこんな声をよく聞きます。
「量子コンピュータが使い物になるのは、100万量子ビットの完全誤り耐性(FTQC)マシンができてからでしょ? それって10年以上先の話だよね」
この認識は、つい最近まで概ね正しいものでした。しかし2025年から2026年にかけて、この前提を覆す研究が相次いで発表されています。その中でも注目すべき論文の一つが、2026年3月に公開された Chung et al.(QunaSys、1QBit、HPE Quantum の共同研究)による「Partially Fault-Tolerant Quantum Computation for Megaquop Applications」です。
本稿では、この論文と関連する研究の意義を、技術的な詳細を極力省いた形でお伝えします。
従来の常識:NISQ → FTQC の「断絶」
量子コンピュータの発展段階は、大きく2つに分けられてきました。
NISQ(ノイジー中規模量子)時代とは現在の段階です。数百量子ビット程度のデバイスがありますが、エラーが多く、実用的な問題を解くには力不足です。そしてFTQC(完全誤り耐性量子計算)時代とは、量子エラー訂正によってエラーを事実上ゼロにできる段階で、実用的な化学シミュレーションや最適化問題を解けるようになります。ただし、これには100万量子ビット以上が必要とされてきました。
問題はこの2つの間に巨大なギャップがあることです。NISQデバイスでは実用的なことがほとんどできない一方、FTQCの実現には膨大な量子ビットが必要で、ビジネスパーソンから見れば「使えるようになるまで何もできない」という印象になりがちでした。
新しい発想:「部分的に」誤りを訂正する
ここで登場するのが「部分的誤り耐性量子計算(Partial FTQC)」という考え方です。
完全な誤り耐性を追求すると、1つの論理量子ビットを作るのに数千の物理量子ビットが必要になります。これが100万量子ビットという巨大な要求につながっていました。部分的誤り耐性のアプローチでは、計算の「一部だけ」を誤り訂正で守り、残りの部分は別の手法(エラー低減技術など)で対処します。必要な量子ビット数を劇的に削減しつつ、実用的な計算精度を確保しようという戦略です。
この発想を具体化したのが、富士通研究所と大阪大学の藤井啓祐教授らが提案したSTAR(Space-Time efficient Analog Rotation)アーキテクチャです。
Chung et al. 論文(2026年3月)の意義
Chung et al. の論文は、このSTARアーキテクチャを「実際の超伝導量子プロセッサのスペック」に基づいてリソース見積もりを行ったものです。これまでの理論的な提案を一歩進め、現実的なハードウェア仕様でどこまでできるかを定量的に示した点が重要です。
主要な結果として、まず必要量子ビット数の大幅削減が挙げられます。2Dフェルミ・ハバードモデル(新素材開発に重要な物理モデル)のシミュレーションが、従来の完全FTQCでは数百万量子ビットが必要とされていたのに対し、数十万の物理量子ビットで実行可能であることが示されました。
次に現実的な計算時間です。適度なシステムサイズであれば、計算時間は分のオーダーにまで短縮されます。従来のSTARアーキテクチャの初期バージョンでは数千年かかると見積もられていた計算が、最新バージョンでは現実的な時間内に完了する見通しです。
さらに論文では「ゴルディロックス・ゾーン」(ちょうどよい領域)が特定されています。10万〜100万の小角度回転ゲートを含む回路において、部分的FTQCが最も効果的に機能する条件が明らかになりました。
これは孤立した主張ではない
重要なのは、Chung et al. の論文が孤立した楽観論ではないことです。同様の方向性を示す査読済みの研究が複数存在します。
Toshio, Akahoshi, Fujii et al.「Practical Quantum Advantage on Partially Fault-Tolerant Quantum Computer」(Physical Review X, 2025年5月)は、STARアーキテクチャの改良版を提示し、数万量子ビットの早期FTQCデバイスで実用的な量子スピードアップが達成可能であることを示しました。8×8サイトのハバードモデルについて、6.8万物理量子ビットで古典コンピュータを超える計算速度が得られるという見積もりを出しています。Physical Review Xは物理学分野でも最も権威あるジャーナルの一つであり、この結果の信頼性を裏付けています。
Akahoshi et al.「Compilation of Trotter-Based Time Evolution for Partially Fault-Tolerant Quantum Computing Architecture」(PRX Quantum, 2025年10月)は、STARアーキテクチャ向けの回路コンパイル手法を最適化し、素朴な実装と比較して10倍以上の高速化を実現しました。物理エラー率10-4のデバイスで、約6.5万物理量子ビットがあれば古典計算を上回れるという見積もりです。
Google Quantum AI「Quantum Error Correction Below the Surface Code Threshold」(Nature, 2025年)は、量子エラー訂正の「閾値」を初めて超えたことを実証しました。量子ビットを増やすほどエラー率が指数的に低下するという、30年来の目標が達成されたのです。この結果は、上述のPartial FTQCの前提となるハードウェア品質が既に手の届く範囲にあることを示しています。
さらにFujitsu × 大阪大学の共同発表(2026年3月)では、STARアーキテクチャのバージョン3と新たな分子モデル最適化技術を組み合わせ、創薬に重要な酵素(シトクロムP450)や触媒分子のエネルギー計算が、早期FTQCデバイスで現実的な時間内に実行可能になることが示されました。従来のFTQCアーキテクチャと比較して、必要量子ビット数を最大80分の1にまで削減できるとしています。
ビジネスにとっての意味
これらの研究を総合すると、次のようなシナリオが浮かび上がります。
タイムラインの前倒しについて。「100万量子ビットのFTQCを待たなければ何もできない」のではなく、数万〜数十万量子ビットの段階で、特定の問題領域において古典コンピュータを超える計算が可能になる道筋が見えてきました。IBMは2026年末までに量子優位性の実証を目標として掲げており、Fujitsuは2030年までにSTARアーキテクチャによる実用的な量子計算の実現を目指すロードマップを示しています。
最初の応用領域として特に有望視されているのは、新素材設計(高温超伝導体の探索など)、創薬における分子シミュレーション(酵素、触媒の挙動予測)、そして凝縮系物理学の研究です。
「早期参入者」の優位性については、Deloitteが2025年に公表したシナリオ分析が示唆的です。量子コンピュータのスケーラブル化が予想より早く到来した場合、2025年以前から投資・準備を行っていた組織が大きなアドバンテージを得る一方、待ち続けた組織は人材確保やパートナーシップ構築で著しく不利になるというシナリオが描かれています。
注意すべき点
もちろん、楽観に振れすぎることには慎重であるべきです。
まず、Chung et al. の論文自身が部分的FTQCの限界も明確に示している点は重要です。あらゆる問題に適用できるわけではなく、適切な回路構造(ゴルディロックス・ゾーン内のもの)を持つ問題に限定されます。また、現時点で示されているのは理論的なリソース見積もりであり、実際のハードウェア上での大規模実証はまだこれからです。さらに、量子計算の性能を古典コンピュータと比較する際には、古典側のアルゴリズムも進化し続けているため、「量子優位性」のハードルは常に動いています。
まとめ
従来の「NISQは使えない → FTQCまで待つしかない」という二項対立は、急速に崩れつつあります。「部分的誤り耐性」という中間段階が、理論・ハードウェア・応用の3方面から同時に裏付けられ始めており、量子コンピュータの実用化タイムラインは、多くのビジネスパーソンが想定しているよりも短くなる可能性があります。
重要なのは、これが「一つの研究グループの楽観論」ではなく、GoogleやIBMといった海外の主要プレイヤー、および富士通・大阪大学・QunaSysなど日本の研究グループから、査読付きの一流ジャーナルで発表された研究群によって支持されている方向性だということです。
「まだ早い」と判断するのは自由ですが、「完全なFTQCが来るまで量子コンピュータは無意味」という認識はアップデートが必要な時期に来ています。
主要参考文献
- Chung, M.-Z. et al. "Partially Fault-Tolerant Quantum Computation for Megaquop Applications." arXiv:2603.13093 (2026)
- Toshio, R. et al. "Practical Quantum Advantage on Partially Fault-Tolerant Quantum Computer." Phys. Rev. X 15, 021057 (2025)
- Akahoshi, Y. et al. "Compilation of Trotter-Based Time Evolution for Partially Fault-Tolerant Quantum Computing Architecture." PRX Quantum 6, 040319 (2025)
- Akahoshi, Y. et al. "Partially Fault-tolerant Quantum Computing Architecture with Error-corrected Clifford Gates and Space-time Efficient Analog Rotations." PRX Quantum 5, 010337 (2024)
- Google Quantum AI. "Quantum Error Correction Below the Surface Code Threshold." Nature 638, 920–926 (2025)
- Preskill, J. "Beyond NISQ: The Megaquop Machine." ACM Trans. Quantum Comput. 6, 3, Article 18 (2025)
- Fujitsu & The University of Osaka. "STAR Architecture ver. 3 for Chemical Material Energy Calculations." Press Release (2026年3月25日)
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