量子測定が切り拓く「計算の壁」 ― 高次OTOC(2)が示す量子コンピュータの必然性 ―
2025年10月、Nature誌に掲載されたGoogle Quantum AIチームの論文
「Observation of constructive interference at the edge of quantum ergodicity」は、
量子情報科学の分野における一つの節目となりました。
本研究で鍵となったのは、OTOC(Out-of-Time-Order Correlator)と呼ばれる量子測定手法の"高次版"、すなわち OTOC(2)です。
この指標が持つ特異な性質が、今後の量子コンピューティングの産業的意義を理解するうえで重要な意味を持ちます。
1. OTOCとは何か―「遠くの相関」を測る量子の鏡
量子多体系では、時間とともに状態が絡み合い、情報が急速に全体へ拡散します。
この「情報の拡散=スクランブリング(scrambling)」は、ブラックホールから分子まで、
広範な量子系で起こる基本現象です。
OTOCは、この拡散の程度を測る相関の指標です。
2つの演算子 A と B を時間を前後に行き来させながら比較し、
「遠く離れた部分がどのくらい影響し合っているか」を定量化します。
化学に例えるなら、分子内で離れた原子同士がどれだけ相互作用しているかを測る"干渉鏡"のようなもの。
NMRで近傍のスピン結合を観測するのに対し、OTOCは"遠距離相関"を浮き彫りにできます。
2. 高次OTOC(2) ― 情報干渉の「建設的重なり」
今回の研究でGoogleは、超伝導量子プロセッサ上でOTOC(2)を実験的に測定しました。
これは通常のOTOCよりも時間反転を1段階多く含む「二重干渉実験」に相当します。
この測定では、量子状態が多数の経路を経て干渉し合う様子が明確に観測され、
その干渉が「建設的(constructive)」に重なり合う瞬間が確認されました。
この建設的干渉は、古典的な確率論的平均では表現できません。
多体量子系特有の、重ね合わせと干渉の世界そのものです。
3. 古典計算との対比 ― 「Beyond-Classical Regime」へ
本論文の最も象徴的な成果は、古典シミュレーションとの圧倒的な計算コスト差の提示です。
OTOC(2)のシミュレーションは、最も高精度な古典手法である
テンソルネットワーク縮約(TNCO: Tensor Network Contraction Optimization)を用いても、指数関数的に計算量が増大します。
Googleの実験チームが行った比較では:
- 量子プロセッサ(65量子ビット)での実測時間:約2.1時間/1回路
- Frontierスーパーコンピュータ(古典計算)での推定時間:約3.2年/1回路
同一タスクにおいて約13,000倍の速度差が生じたことになります。
この領域はもはや古典的な近似法では扱えず、Googleはこの状態を
「Beyond-Classical Regime(古典を超えた領域)」と呼びました。
ここで言う「超えた」とは、単に速いという意味ではなく、
"古典コンピュータでは原理的に近似が破綻する領域"を指します。
OTOC(2)の測定は、まさにその境界線上に立つ実験でした。
4. NMRとの接点
実は、OTOC的な操作はNMRの世界にも通じています。
NMRでは、スピン系の時間発展を"エコー"として再現する手法が確立していますが、
OTOCと類似する「多重時間反転パルス」を用いた実験が報告されています。
これにより、従来のNMR測定では観測しにくかった長距離スピン相関が明確化され、
分子構造解析の新しい窓が開かれつつあります。
量子コンピュータ実機でOTOC(2)を動かして得た計算結果とNMR測定結果とを比較することで、より複雑な分子構造情報を読み解くことが期待されます。
5. 材料・化学シミュレーションにおける示唆
材料開発や分子設計の現場では、
第一原理計算・分子動力学・NMRスペクトル解析などが組み合わされ、理論と実験の突き合わせによって物質構造が同定されています。
こうした構造は、実は今回の研究で扱われたOTOCとも深く関わっています。
化学メーカーでは一般的に、NMRスペクトル測定から得られたデータを第一原理計算(DFTなど)による予測と照合し、分子構造を同定します。
しかし、分子内の電子スピンや軌道間の相関をより正確に再現しようとすると、
計算コストは指数関数的に増大します。
もし、NMRでOTOC的なパルスを使って
"長距離スピン相関"や"時間発展中の干渉成分"を実験的に観測できた場合、
その信号を理論的に再現・比較するには、時間反転操作を含む動的相関関数(OTOC(2)のような高次相関量)を第一原理レベルで計算する必要があります。
しかし、これは古典スーパーコンピュータ上では膨大な自由度と指数的スケーリングを伴う極めて困難な課題です。
言い換えれば、
実験で得た「OTOC的なNMR信号」と、
理論計算による再現結果を本気で突き合わせようとした瞬間、
スパコンでは追いつけない"Beyond-Classical"の壁に直面する。
まさにその領域を、今回のGoogleの研究が量子プロセッサで突破したのです。
量子計算なら、干渉や時間反転といった複雑な現象をハードウェアそのものが自然に再現できるため、
「OTOC的な信号を直接シミュレーションできる」、これこそ量子コンピュータの圧倒的な優位性です。
6. これからの方向性 ― 「量子でなければ見えない分子の姿」
Googleの今回の実験は、まだ基礎的な段階(65量子ビット規模)です。
しかしその中で観測された「干渉の複雑さ」は、
将来的に量子コンピュータでしか再現できない現象領域の存在を明確に示しました。
この成果は、化学産業にとって次のようなメッセージを投げかけています。
「OTOC的なNMRで見える世界」は、
古典コンピュータではシミュレーションできない。
OTOC的なNMR測定の解析データを理論的に再現するためには、量子コンピュータが必須となります。
7. 「2019年の量子超越」との違い ― 今回は「検証可能な量子優位」
読者が最も気にするのは次の点でしょう。
「2019年にもGoogleが"量子がスパコンを超えた"と発表していた。今回は何が違うのか?」
結論から言うと、達成した内容の"質"が違います。2019年は主に"速度の証明(Quantum Supremacy)"、今回は検証可能な実用計算"での量子優位(=量子加速)です。
2019年:量子超越(Quantum Supremacy)=「速さ」の初実証
- タスクの性質:ランダム回路サンプリング(出力分布の統計をできるだけ速く生成する競争)
- 到達点:「スパコンより速く」という事実の実証。
- 限界:出力ビット列はランダム性が高く、「答えが正しいか」の検証が本質的に難しい(実用上の意味づけが弱い)。
Googleが量子超越を達成 -新たな時代の幕開けへ(後編) に詳しいです。
2025年:検証可能な"実用計算"での量子優位(量子加速)
- タスクの性質:OTOC(2)(高次アウト・オブ・タイム・オーダー相関)という物理的に定義された期待値を、時間反転エコーを用いて直接測る。
- 到達点:
- 検証可能:OTOC(2)は「期待値」という普遍的な物理量であり、別装置や理論モデルと照合・再現可能(=正しさを検証できる)。
- Beyond-Classical:同一回路あたりで、量子プロセッサ(65量子ビット)=約2.1時間に対し、最も正確な古典手法であるテンソルネットワーク縮約(TNCO)=約3.2年と推定。すなわち約13,000倍の差で古典計算の実質的不可能領域に入ったことを数値で提示。
- 実務的含意:たとえば「分子のエネルギーを求めたい」「OTOCのような相関に基づく定義量を評価したい」という具体的目標があり、"使える手段は古典でも量子でも何でもOK"という前提で勝ったのが量子(量子加速)、という位置づけです。OTOC(2)はまさにそのタイプのターゲットで、検証可能な"答え"を量子で素早く得られるということです
要するに、2019年は「速さの証明」、2025年は「速さ+正しさ(検証可能性)」の同時証明。
実験室デモから、実用タスクで"計算の壁"を越える道具へと質的に前進した、ということです。
🔍 まとめ ― 「量子加速」が現場にやってくる日
- OTOC(2)は、量子系の深い干渉構造を測る高感度な量子指標。
- そのシミュレーションは古典計算では指数的に難しく、量子計算でのみ実現可能。
- 量子(2.1時間)と古典(3.2年)という圧倒的な差は、「Beyond-Classical Regime」の到来を意味する。
- 2019年は"速さの証明"、2025年は"正しさの証明"。
- NMRや分子シミュレーションとの接点も多く、"量子計算が必要になる計算の壁"を具体的に示す。
研究としてはまだ基礎段階ですが、「OTOC的パルスを使う解析」や「長距離相関を含む分子モデリング」に関心を持つことが、量子時代の化学解析の第一歩になるかもしれません。
参考論文:
Google Quantum AI and Collaborators, Nature 646, 825-831 (2025).
"Observation of constructive interference at the edge of quantum ergodicity."
DOI: 10.1038/s41586-025-09526-6