CAEにおける量子コンピューティングの最新動向:2025年の最新事例と展望
はじめに
本記事は、CAE(Computer Aided Engineering)分野における2025年に発表された量子コンピューティングの最新動向に焦点を当てる。 2025年は、CAE分野で量子技術を活用する取り組みが活発化してきている。
エグゼクティブサマリー
CAE業界のリーダーであるAnsys社と量子コンピューティング企業IonQ社の提携は、その進捗を象徴するものである。2025年3月には、両社の協業により、人工心臓ポンプの流体シミュレーションにおいて、古典コンピューターを最大12%上回る処理性能が達成されたことが発表された。これは、量子技術が理論的な可能性から現実的な価値を生み出し始めたことを示す例である。
また、BMWグループも、材料科学や生産最適化といった領域で、QuantinuumやClassiq、Nvidiaといった海外の専門企業との協業を進めている。流体力学(CFD)の分野では、BQP社がVQLS(Variational Quantum Linear Solver)を用いたハイブリッド手法を研究していることを2025年8月に更新されたブログ記事で述べている。有限要素法(FEM)においても、2025年7月に更新された論文で、特定の条件下で古典的な手法を上回る量子優位性を達成できる可能性が示唆されるなど、CAE分野における量子の取り組みは活発になってきている。
これらの動きは、現在のNISQ(Noisy Intermediate-Scale Quantum)デバイスの制約を克服するため、量子と古典の計算を組み合わせるハイブリッドアプローチが主流となっている現状を反映している。2025年8月に発表された研究は、たとえ完全な量子優位性が確立されなくても、量子技術への投資が「量子インスパイアード」アルゴリズムとして既存の古典コンピューティングの性能を向上させるという副次的利益をもたらすことを示唆している。企業は、先行者利益を確保するために、特定の課題に焦点を当てた研究開発、およびベンダーとの積極的な協業という動きが観測される。
2025年のCAEにおける主要な応用事例と成果
1.1. 象徴的な事例:AnsysとIonQの提携
CAE業界に量子コンピューティングを統合するための戦略的提携を2024年に発表したAnsysとIonQは、2025年に具体的な取り組みを発表した。2025年3月、両社は人工心臓ポンプの流体シミュレーションにおいて、古典的なコンピューターと比較して最大12%の処理性能向上を達成したと発表した。この取り組みは、IonQの生産システム「IonQ Forte」(36アルゴリズム量子ビット)を使用し、最大260万頂点、4000万エッジという大規模なモデルを処理したハイブリッドワークフローによって達成された。IonQのCEO、Niccolo de Masi氏は、このデモンストレーションは「量子コンピューティングが主要な古典的手法を上回る、史上初の事例の一つ」であると述べている。これは、量子技術が理論的な可能性から「現実的な価値」を生み出し始めたことの具体的な例という見方もある。
1.2. 自動車産業における材料科学と最適化
BMWグループは、2017年から量子コンピューティングの可能性について研究しており、2025年2月にその取り組みの最新状況を発表した。同社は、材料科学、エンジニアリング、プロセスという3つの広範な分野で量子コンピューターの産業利用の可能性を探求している。BMWは、材料シミュレーションにおける軽量で頑丈な材料の発見など、コアビジネス領域に量子アルゴリズムを適用するために、Quantinuum、Classiq、Nvidiaといった特定の専門分野を持つ企業と協力している。BMWの研究者は、量子技術が「関連する化学的精度で材料特性をシミュレートする」ための適切なツールを提供すると述べている。さらに、生産プロセスの最適化、例えば工場内のロボット経路計画への量子アニーリングの適用も進めている。
1.3. 計算流体力学(CFD)分野の進展
CFDは、航空機や自動車の設計に不可欠なツールであり、流体の挙動をシミュレーションする。特に、広範なスケールにわたる現象を扱う際には、膨大な計算リソースと時間が必要となる。BQP社は、2025年8月に更新されたブログ記事で、VQLS(Variational Quantum Linear Solver)をCFDの線形システムに適用するハイブリッド手法を研究していることを述べている。このアプローチは、古典的な線形ソルバーのボトルネックを解消することを目指しており、NISQデバイスへの適用に適しているとされている。
1.4. 有限要素法(FEM)アルゴリズムの研究
FEMは、構造力学やCFDなど、さまざまな分野で偏微分方程式の境界値問題を解くために使用される。2025年7月に改訂されたDeimlとPeterseimによる論文は、特定の条件下(低次元、非平滑な解)では、この多項式的な加速でも古典手法を上回る量子優位性を達成できることを示唆している。この研究は、量子アルゴリズムを実用的な問題に適用する上での期待を高めるものである。
技術的課題と2025年の展望
2.1. NISQ時代の限界とハイブリッドアプローチ
現在の量子コンピューターは「NISQ(Noisy Intermediate-Scale Quantum)」時代にあり、ノイズに弱く、量子ビット数も限られているため、単独で大規模な問題を解くことは現実的ではない。このため、量子コンピューターは計算集約的なカーネルを、古典コンピューターは全体の最適化プロセスを管理する「ハイブリッド」手法が主流となっている。AnsysとIonQの協業事例は、このハイブリッドワークフローが特定の産業応用において、既存のHPC技術を加速できる可能性を示した。
2.2. ロードマップと投資戦略
完全なエラー訂正を備えたフォールトトレラント量子コンピューティング(FTQC)は、真の量子優位性を解き放つ鍵とされているが、その実用化はまだ長期的な目標である。しかし、2025年9月にQuEra社が発表した新たなフォールトトレランスフレームワークは、ニュートラルアトムコンピューターの柔軟な接続性が論理アルゴリズムの実行を高速化できる可能性を示唆し、FTQCの実用化までのタイムラインを加速させる必要があることを強調している。
QunaSysの取り組み
QunaSysは、CAE領域への量子応用研究として、流体シミュレーション(CFD)を対象にした量子回路実装の実証を2025年7月に発表した。当社は、格子ボルツマン法に基づく流体解析を量子アルゴリズムで再構築し、自社開発の「QURI SDK」を用いて量子回路を設計・シミュレーションした。従来研究で未解決であった流入・流出境界条件の量子実装を実現し、古典的な数値解と整合する結果を得ている点が特徴である。また、線形化による非線形効果の誤差特性を解析し、誤差が時間に比例して増加する傾向を定量的に示した。これらの成果は、量子コンピュータがCFD計算において実用的な規模での計算可能性を持つことを初めて確認した例の一つとされる。今後は、非線形効果の導入や物理量の推定など、より複雑なシミュレーションへの拡張が予定されている。詳細はテックブログを参照: https://tech.qunasys.com/posts/lbm_circuit_simulation/
また、「量子導入を計る15の質問」という、企業がCAE分野で量子技術を導入すべきか判断するためのチェックリストも提供している。
まとめ
2025年は、CAE分野における量子コンピューティングの進展において、理論的議論から具体的な実証へと移行した年として特筆される。AnsysとIonQの提携は、量子技術が現実世界の問題解決に貢献し始めている一歩である。一方で、技術的な課題は依然として大きく、企業はクラウドサービスなどを活用しながら、特定の、計算集約的な問題に焦点を当てた段階的なアプローチで量子技術の研究開発に取り組むことが賢明である。
参考文献
- IonQ and Ansys Achieve Major Quantum Computing Milestone -- Demonstrating Quantum Outperforming Classical Computing https://ionq.com/news/ionq-and-ansys-achieve-major-quantum-computing-milestone-demonstrating
- IonQ and Ansys Explore Quantum-Accelerated Medical Device Simulation - HPCwire https://www.hpcwire.com/off-the-wire/ionq-and-ansys-explore-quantum-accelerated-medical-device-simulation/
- BMW Group, Airbus and Quantinuum Collaborate to Fast-Track Sustainable Mobility Research Using Cutting-Edge Quantum Computers https://www.quantinuum.com/press-releases/bmw-group-airbus-and-quantinuum-collaborate-to-fast-track-sustainable-mobility-research-using-cutting-edge-quantum-computers
- Quantum Computing at the BMW Group - BimmerLife https://bimmerlife.com/2025/02/11/quantum-computing-at-the-bmw-group/
- Hybrid Quantum--Classical CFD: Overcoming VQLS Limitations | BQP https://www.bqpsim.com/blogs/vqls-cfd-quantum-simulation
- BQP's Hybrid Quantum--Classical Algorithm for Scalable CFD https://www.bqpsim.com/blogs/hybrid-quantum-cfd
- [2403.19512] Matthias Deiml, Daniel Peterseim: Quantum Realization of the Finite Element Method - arXiv https://arxiv.org/abs/2403.19512
- Quantum and Hybrid Quantum-Classical Algorithms - Quantum Science and Engineering (QSE) - University of Delaware https://qse.udel.edu/research/quantum-and-hybrid-quantum-classical-algorithms/
- Variational Quantum Algorithms for Computational Fluid Dynamics | AIAA Journal https://arc.aiaa.org/doi/10.2514/1.J062426
- Quantum algorithms and the finite element method | Phys. Rev. A https://link.aps.org/doi/10.1103/PhysRevA.93.032324
- QuEra and Collaborators Unveil Breakthrough in Algorithmic Fault Tolerance for Quantum Computing, Cutting Runtime Overheads and Accelerating the Path to Real-World Applications - PR Newswire https://www.prnewswire.com/news-releases/quera-and-collaborators-unveil-breakthrough-in-algorithmic-fault-tolerance-for-quantum-computing-cutting-runtime-overheads-and-accelerating-the-path-to-real-world-applications-302565130.html