今年のノーベル物理学賞を高校生向けに解説

「見えるサイズ」で量子の不思議を観測・実証!

壁をすり抜けるボール?量子の世界では当たり前

私が高校生の時に、物理の先生が量子物理学にはトンネル効果というのがあると教えてくれました。それからしばらく、ボールで壁当てをしている時に、次の一球は壁をすり抜けてしまうんじゃないか、と思いながら投げまくっていたことが懐かしいです。

「そんなバカな!」と思うでしょう。ところが、目に見えない小さな粒子の世界では、これが本当に起こるんです。(逆にボールのサイズだと、確率的に宇宙年齢を超えても起こらないですが。)

今年のノーベル物理学賞は、この「すり抜け現象」を、手に乗るサイズの超伝導チップで、実験的に観測した3人の科学者に贈られました。
2025年は、量子力学が誕生してちょうど100周年にあたります。その記念すべき年に、量子コンピューターの基礎となる「量子力学がマクロな世界でも起こること」を観測・実証した研究が選ばれたのは、単なる偶然ではないでしょう。どんな技術なのか見てみることにしましょう。

受賞者は誰?

ジョン・クラーク (1942年生まれ、イギリス出身)
カリフォルニア大学バークレー校名誉教授

ミシェル・ドゥヴォレ (1953年生まれ、フランス出身)
イェール大学名誉教授

ジョン・マルティニス (1958年生まれ、アメリカ出身)
カリフォルニア大学サンタバーバラ校名誉教授

受賞理由:「超伝導回路(ジョセフソン接合)における巨視的量子トンネル効果とエネルギー量子化の発見」(特殊な電子回路で、大きなスケールのトンネル効果とエネルギー量子化を発見)

量子の世界ってどんな世界?

私たちが普段見ている物は、無数の原子や分子でできています。
でも、原子1個、電子1個というミクロの世界では、不思議なルールが働いています。それが量子力学です。

量子力学の不思議その1:トンネル効果

普通の世界では、ボールが壁を越えるには壁より高く投げる必要があります。物理的に言えば、ボールのエネルギーは、壁の高さに対応する位置エネルギーよりも大きくなければなりません。
でも量子の世界では、エネルギーが足りなくても、粒子が障壁を「すり抜けて」反対側に現れることがあるんです。

これは実際に原子核の世界で起きています。放射性崩壊という現象では、原子核の中の粒子が、本来は出られないはずの障壁をトンネル効果ですり抜けて飛び出します。
太陽が大きなエネルギーを放出できるのもトンネル効果が関係しています。太陽の中心で、水素原子核同士が核融合を起こす際、本来は乗り越えられないはずの電気的な反発(クーロン障壁)を、トンネル効果ですり抜けているのです。

量子力学の不思議その2:エネルギーの階段

もう一つの不思議は、エネルギーが階段状になっていることです(より正しくは、量子化、離散化といいます)。普通の世界では、物のエネルギーは連続的に変化します。でも量子の世界では、「この量」「あの量」と決まった量しか吸収したり放出したりできないことがあります。まるで階段を1段ずつしか上れないように。

なぜこの研究がすごいの?

実は、量子の不思議な現象は、これまで原子や電子といった「目に見えないほど小さなもの」でしか観測されていませんでした。

「巨視的スケールでは量子性がしばしば失われる」

これが常識だったんです。シュレーディンガーという物理学者が「箱の中の猫が生きていて、かつ死んでいる」という有名な思考実験を考えたのも、「猫くらいの大きさになったら量子の不思議なんて起きるわけない」という皮肉を表現するためでした。

ところが!

3人が成し遂げた偉業

1984〜1985年の革命的実験

カリフォルニア大学バークレー校で、クラーク教授の研究室に集まった3人は、画期的な実験に挑戦しました。

使ったのは:超伝導回路。
超伝導体という特別な材料は、ものすごく冷やす(数十ミリケルビン=絶対零度に近い温度)と電気抵抗がゼロになります。
その中では、電子が2個ずつペアになって動きます。これをクーパー対と呼びます。
たくさんの電子ペアが、まるでひとつのチームのように同じリズムで動くので、回路全体がひとつの大きな粒子のように振る舞うのです。

3人は、薄い絶縁体を2つの超伝導体で挟んだ素子(ジョセフソン接合素子) を作りました。
チップ全体は数ミリ四方で、その中の接合部分はわずか10〜80マイクロメートルというミクロサイズ。

ちなみに、この「ジョセフソン接合」という仕組み自体は、イギリスの物理学者ブライアン・ジョセフソンが1962年に理論的に考案し、その功績によって1973年にノーベル物理学賞を受賞しています。
今回の3人は、そのジョセフソン接合を使って、量子の不思議が"見えるサイズ"でも起きることを初めて実験で示したのです。

実験で何が起きた?

まず、ジョセフソン接合では、弱い電流を与えても電圧はゼロのままです(直流ジョセフソン効果)。
このとき、電流のリズム(=超伝導体の中の電子ペアの動き方、つまり位相)は、見えないエネルギーの壁の中に閉じ込められています。
しかし、量子の世界では、この位相が確率的に壁をすり抜ける(=量子トンネルする)ことがあります。
壁を抜けた瞬間に電圧が現れ、接合の状態が変化するのです。

電流を少しずつ増やしていくと、ある瞬間に電圧がポンッと現れることがありました。
その"スイッチが入る電流"を温度を変えて測ってみると、ある温度より下では変化が止まりました。
つまり、熱の力ではなく、量子トンネルによって壁をすり抜けていることが分かったのです。

さらに、マイクロ波を当てて調べてみると、このシステムのエネルギーが階段状(飛び飛び)になっていることも確認されました。
これはまさに、量子力学が予測していた通りの結果でした。

なぜ難しかった?

この実験を成功させるには、とてつもない精密さが必要でした。

  • ノイズとの戦い: 外からのわずかな電波や熱でも量子状態は壊れてしまいます(デコヒーレンス)。多段のフィルタや減衰器、シールドで外来ノイズを抑え、測定環境を丁寧に整えました。
  • 測定に次ぐ測定: 実験を理論と比べるため、ジョセフソン接合の性質 - たとえば「どのくらいの電流で壁を越えやすくなるか(臨界電流)」や「どのくらい振動しやすいか(容量や抵抗)」 - をひとつずつ測定しました。 こうして理論式に必要なパラメータを複数の実験から求め、予測と実際のデータを細かく照らし合わせたのです。
  • 統計を取る: 量子の世界は確率的なので、多数の反復計測を行い、分布や持続時間を統計的に解析しました。

こうした努力の末、彼らは「手で持てるサイズの装置で量子の不思議が起きた!」ことを疑いようのない形で観測・実証したのです。

この発見は何の役に立つ?

1. 理論的な意義

「量子の不思議は本当に大きなものでも起きる」ことが観測・実証されました。ここでいう「大きなもの」とは、装置のサイズというよりも、数十億個もの電子ペア(クーパー対)が同じ量子的リズムで動く“巨視的な量子状態”のことです。 シュレーディンガーの猫ほど大きくはないけれど、これほど多くの粒子がひとつの量子として振る舞う様子を直接観測できたのは、まさに画期的でした。

2. 実用的な応用

量子コンピュータへの道

実は、マルティニス博士はその後、この研究を発展させて量子コンピュータの開発に取り組みました。この実験で観測・実証された「エネルギーの階段」を利用して、情報を0と1で表す量子ビットを作ったんです。

超伝導回路を使った量子コンピュータは、今、世界中で研究されている最先端技術の一つです。GoogleやIBMなども開発競争に参加しています。

その他の応用

  • 超高感度センサー
  • 量子暗号(盗聴の試みを原理的に検出できる鍵配送)
  • 新しい量子技術の基礎研究

ノーベル委員会のコメント

「100年前に生まれた量子力学が、今も新しい驚きを与え続けてくれるのは素晴らしいことです。しかもそれは実用的でもあります。量子力学はすべてのデジタル技術の基礎なのですから」

実際、皆さんが使っているスマホの中のトランジスタも、量子力学なしには動きません。今回の受賞は、さらに次世代の量子技術への扉を開いたのです。

まとめ:見えない世界と見える世界をつなぐ

私たちは普段、ボールは壁で跳ね返り、階段を使わずともスムーズに坂を登って山に登れる世界にいます。でも、この世界を作っている原子や電子は、全く違うルールで動いています。

今回の3人の科学者は、その「見えない世界のルール」を「見えるサイズ」で観測・実証しました。まるで量子の世界と私たちの世界の橋を架けたような発見です。

この橋のおかげで、私たちは量子の不思議をもっと理解し、もっと使いこなせるようになりました。事実、この研究は単なる基礎理論ではなく、超伝導量子ビットという具体的なデバイスに直結し、量子コンピューター実現の重要な技術になっています。量子コンピュータで病気の治療法を見つけたり、気候変動を予測したり、そんな未来が、そんな未来が、この研究から始まったと言えるようになるかもしれません。

(文:鉄烏賊)

参考文献

  1. The Nobel Prize in Physics 2025 — Popular Science Background, The Royal Swedish Academy of Sciences(2025年)
  2. John Clarke, Michel H. Devoret, and John M. Martinis – Nobel Prize Press Release (Official), The Nobel Foundation(2025年10月)
  3. J.M. Martinis, M.H. Devoret, and J. Clarke, "Experimental tests for the quantum behavior of a macroscopic degree of freedom: The phase difference across a Josephson junction," Physical Review Letters 55, 1543 (1985).
  4. B.D. Josephson, "Possible new effects in superconductive tunneling," Physics Letters 1, 251 (1962).
  5. Nobel Lecture: Brian D. Josephson, "The discovery of tunnelling supercurrents," (1973).