欧州レポート ユースケースその1: 酵素反応を量子コンピュータでシュミレーションする
QunaSysは、欧州の量子ハブの一つであるコペンハーゲンにもオフィスを構え、海外での量子コンピュータ研究開発を推進しています。 当社もメンバーであるDanish Quantum Community(DQC)が発行するレポートに、量子コンピュータの16のユースケースとして紹介されていましたので、これから抄訳して連載していきます。
酵素研究を加速させる
デンマークの量子ソフトウェア企業Kvantifyと、バイオソリューション分野のリーディングカンパニーNovonesisは、ハイブリッド量子・古典計算手法を用いて、化学精度を満たす形で初めて酵素反応のシミュレーションに成功しました。 これは、近い将来の量子ハードウェアでも有用性があることを示しています。
酵素は数千に及ぶ生物学的プロセスにおいて重要な触媒として機能しています。 医薬品、食品、化学産業、CO₂回収など、多様な産業分野で応用可能性が広がっています。
しかし、酵素は非常に複雑な分子であり、その反応メカニズムを古典的計算手法で正確にモデル化するのは困難です。 そのため、酵素を標的とした応用開発のボトルネックとなっていました。 これを突破するために量子コンピュータの活用が注目されており、本事例はまさにその先駆けです。
近い将来の量子計算のバイオテクノロジー応用
Kvantify社とNovonesis社は、酵素反応計算を現在の量子ハードウェア上で実行することで、バイオテクノロジー分野における量子コンピューティングの近未来的な応用を実証しました。
彼らが取り組んだ具体的な課題は、「炭酸脱水酵素」によって触媒される「二酸化炭素の水和反応における陽子移動ステップ」のシミュレーションです。
炭酸脱水酵素は、二酸化炭素と水を炭酸へと変換する反応を自然に触媒し、 この過程は血液のpH調節や体内の二酸化炭素輸送において重要な役割を果たしています。
密度汎関数理論(DFT)は、電子構造の量子力学的モデリングのために古典コンピュータ上で広く用いられている確立された手法です。 しかしこの手法では、化学反応を定量的にモデル化するために必要な「1 kcal/mol以内」という化学精度(chemical accuracy)の誤差レベルを達成するのが困難です。
酵素は非常に複雑な分子ですが、実際に反応に関与する「活性部位」に限定すれば、その領域の原子に着目することができます。 分子全体を反応への関与度に応じて段階的に細分化し、それに応じて計算資源を配分する多層埋め込みモデル(multilayered embedding)を構築することで、酵素全体の反応を精密に理解するためのモデリングが可能になります。
この手法では、酵素の活性部位に対しては最も高い精度が必要となるため量子コンピューティングを用い、中央部分はDFTで、外縁部は古典的な方法でモデル化します。
- 活性部位(active site):量子計算(FAST-VQE)で高精度に計算
- 中心領域(central region):DFTで近似計算
- 外周領域:古典力場でさらに簡易にモデリング
層の境界部分では、モデル間の整合性が適切に保たれるように注意が払われます。 これにより、量子ハードウェアと高性能コンピュータによる計算を組み合わせたハイブリッド量子古典手法が実現されます。
具体的には、Kvantify社独自の量子アルゴリズム「FAST-VQE(Fast Variational Quantum Eigensolver)」が活性部位の波動関数埋め込みのために使用されました。
この水和反応のシミュレーションでは、初期の反応物から最終生成物に至るまでの反応経路が、抽象的な集団的反応座標(collective reaction coordinate)で記述された中間構造を通じて特定されました。
得られた反応エネルギーは、ハイブリッド量子古典手法が、古典量子化学手法であるCASCI(Complete Active Space Configuration Interaction)によるベンチマーク結果に非常に近い値を示せることを明確に示しました。
さらに重要な点として、FAST-VQEを十分な繰り返し回数で実行すれば、1 kcal/mol以内の化学精度を満たせることも明らかになりました。
この量子アルゴリズムは、イオントラップ型および超伝導型の2種類の量子コンピュータで実行されました。
ただし、現在の量子ハードウェアは回路深さに制約があるため、繰り返し計算を必要とするアルゴリズムにとっては困難が伴います。 そのため、必要な反復回数を可能にするためにゲートの再コンパイル技術が開発されました。 これは、量子アルゴリズムを最小限の基本ゲート操作で実行できるように変換する技術です。
インパクトと応用可能性
このユースケースは、現在の量子コンピュータが、バイオテクノロジー分野における産業的に重要な課題に対して有効であることを示しています。ただし、それは単体ではなく、専門的なドメイン知識、最先端の古典的手法、そして高効率に最適化された量子アルゴリズムを組み合わせたハイブリッド量子-古典アプローチとして活用された場合に限られます。
このような手法により、従来の限界を超え、正確な化学シミュレーションの実現が可能となり、エネルギー効率が高く環境にやさしい酵素反応プロセスの開発とその産業・家庭での普及が加速される可能性があります。
さらに、ここで使われた**多層埋め込み手法(multilayered embedding)**は化学シミュレーション全般に広く応用可能であり、創薬やバッテリー技術といった分野においても、近未来的な量子-古典ハイブリッドシミュレーションによる進展をもたらす可能性があります。
もっと詳しく知りたい方へ
本レポートは16 Danish QuantumUse Casesで原著を読むことができます。 Qunasys ResearchチームでもVQEに豊富な経験を持つ研究者がおりますし、酵素の量子コンピュータシミュレーションに取り組んでいます。気軽にお問い合わせください。