大規模電子系のグリーン関数を効率よく計算する手法を開発 〜 量子コンピュータの強相関電子系への応用へ向けた着実な一歩 〜
株式会社QunaSys(本社:東京都文京区、代表:楊 天任、以下「QunaSys」)は、富士通株式会社(本社:東京都港区、代表取締役社長:時田 隆仁、以下「富士通」)との共同研究グループにおいて、量子コンピュータを用いて大規模な電子系の「グリーン関数」[1]を効率よく計算する手法を開発しました。本研究成果は、量子コンピュータの物質科学への現実的な応用を実現するための着実な一歩となります。
物質中の電子に代表される大規模な量子多体系[2]の計算は、量子コンピュータによる計算速度の向上が期待されている分野の一つです。その中でも、電子系のグリーン関数[1]を計算することは、物質のさまざまな物性を予測する上で非常に重要です。今回、QunaSysと富士通の共同研究グループは、QunaSysが理化学研究所・大阪大学と共同で2022年10月に発表した「局所変分量子コンパイル法 (LVQC)」 [3]を応用して、量子コンピュータを用いて大規模な電子系のグリーン関数を計算するための新たな手法を開発しました。LVQCを応用することで、小規模な量子系での最適化のみを用いて、大規模系の計算に必要な効率の良い量子回路を決定することができ、現在使用可能なNISQデバイスや黎明期の誤り耐性量子コンピュータ(Early-FTQC)[4]での実行可能性を高めることができます。
数値計算による提案手法の例証を行った他、古典コンピュータでは解けないような大規模系を解くために具体的に必要な量子ゲート数や回路実行回数を見積もりました。これまで提案されていた手法と比べると、提案手法ではより少ないゲート数や回路実行回数でグリーン関数が計算可能であることを示しました。
本研究成果は、アメリカ物理学会のオンライン科学雑誌『Physical Review Research』(2023年8月1日付:日本時間8月2日)に掲載されました。
背景
量子力学で記述される粒子が多数集まった量子多体系[2]の性質を計算することは、量子コンピュータが古典コンピュータに比べて非常に高速に計算を実行できるタスクの一つであると考えられています。特に、物質中の電子が強く影響し合う強相関電子系の性質を解明することで、高機能な素材やデバイスの設計へと繋がると期待されています。
このような物質(電子系)の研究において、電子のグリーン関数という量を計算することがあります。グリーン関数は電子のダイナミクス(時間発展)を用いて定義される量で、物質の電気抵抗や熱応答など、実用上興味のある様々な物性値を計算することが可能です。
量子コンピュータを用いたグリーン関数の計算手法に関する提案はこれまでにも数多くありましたが、大規模な量子系へのスケールアップをどのように行うかが課題となっています。例えば、現在実現されているNISQデバイス[4]でも実行できる可能性がある「変分量子最適化[5]を対象系に直接適用する」手法の場合、大規模な量子系での最適化の実行可能性(最適化の困難さと計算コストの増大)が課題となります。一方で、トロッター分解や近年注目されている量子特異値変換[6]に基づくグリーン関数計算手法は、必要な量子回路がとても複雑になるため、非常に大規模な誤り耐性量子コンピュータの使用が必須となります。
研究手法と成果
本研究では、QunaSysが理化学研究所、大阪大学と共同で2022年に開発した「局所変分量子コンパイル(LVQC)」[3]という手法を応用し、大規模な電子系のグリーン関数を計算することを提案しました。LVQCは、小規模な量子系のみで変分最適化を行った結果を用いて、大規模な量子系でのダイナミクスを計算する手法であり、現在のNISQデバイスや、今後実現が期待される黎明期の小規模な誤り耐性量子コンピュータ(Early-FTQC)を用いて実行可能であることが期待されています。
まず、LVQCの原論文ではあらわに考慮されていなかった、電子などのフェルミオン系[7]に対するLVQCの適用可能性を証明しました。そして、LVQCを用いて決定した時間発展を記述する量子回路を用いたグリーン関数の計算アルゴリズムを提案しました(図1)。ここでは、計算対象の持つ対称性を利用して計算コストを削減する独自手法も実装されています。
図1 本研究で確立された手法の概要
本手法では変分最適化が困難な大規模量子多体系のグリーン関数を以下の手順で効率的に計算する。まず、大規模な量子多体系から小さな部分系を取り出し、小規模量子コンピュータまたは古典コンピュータを用いて、そのダイナミクスを再現する量子回路を変分最適化により設計する。次にこの変分最適化計算で得られたパラメータを利用して、目的の大規模量子多体系のダイナミクスを再現する量子回路を少ない量子ゲート数で効率的に構成する。最後に、この量子回路に対する期待値測定を行うことでグリーン関数が求まる。このグリーン関数を用いて様々な物性計算を行うことができる。
数値的な実証として、古典コンピュータによる量子コンピュータの動作シミュレーションを用いて、1次元と2次元のフェルミオン・ハバード模型[8]と呼ばれる強相関電子系のモデルに提案手法を適用しました。その結果、小規模な量子系での最適化のみを用いて決定したLVQCの結果を用いて、より大きな系でのグリーン関数および状態密度[9]を正確に効率よく計算できることを明らかにしました(図2)。さらに、古典コンピュータでの厳密な計算が困難である20×20サイトのフェルミオン・ハバード模型に対して提案を適用した場合に必要なゲート数や量子回路の実行回数を具体的に見積もり、従来手法のトロッター分解に比べて必要リソースが大幅に削減できることを示しました。
図2 本手法の性能の検証結果
(a) 4×2サイト格子(16量子ビット)の2次元フェルミオン・ハバード模型に対するグリーン関数の時間依存性。青い点が本手法の計算結果で、2×2サイト格子(8量子ビット)の小規模部分系における変分最適化を通じてグリーン関数を計算している。黒い実線は正確な計算結果を表す。本手法の計算結果は、長い時間スケールで正確な計算結果とよく一致している。
(b) 4×4サイト格子(32量子ビット)の2次元フェルミオン・ハバード模型に対する状態密度の計算結果。青い点が本手法の計算結果で、2×2サイト格子(8量子ビット)の小規模部分系における変分最適化を通じて得られたグリーン関数を用いて計算している。黒い実線は先行文献(Leung et al., Physical Review B 46, 11779 (1992).)で得られた正確な計算結果を表す。本手法の計算結果は、先行文献で得られた正確な計算結果を良く再現している。
今後の期待
本研究成果は、量子多体系の最も基本的な量の一つであるグリーン関数を、量子コンピュータを用いて現実的に計算するための着実な一歩となります。グリーン関数はさまざまな物性値と結びついているため、量子多体系の計算で古典コンピュータを上回る量子コンピュータが出現した際には、材料の物性解析や素材開発など幅広い応用が期待できます。QunaSysと富士通は、今後も量子コンピュータの実用アルゴリズムとそのアプリケーションの研究開発を続けていきます。
論文情報
<タイトル>
Computation of Green’s function by local variational quantum compilation
<著者名>
Shota Kanasugi, Shoichiro Tsutsui, Yuya O. Nakagawa, Kazunori Maruyama, Hirotaka Oshima, and Shintaro Sato
<雑誌>
Physical Review Research, 5, 033070 (2023).
https://doi.org/10.1103/PhysRevResearch.5.033070
補足説明
[1] グリーン関数
量子多体系の理論解析において用いられる量。電子のグリーン関数は、その量子系での電子のダイナミクス(時間発展)を元に定義される。
[2] 量子多体系
量子力学で記述される粒子が多数集まった物理系のこと。古典力学では見られない様々な現象が起こり、物質の記述にも用いられる。
[3] 局所変分量子コンパイル法(LVQC)
小規模な量子系のみで変分最適化を行った結果を用いて、大規模な量子系でのダイナミクスを計算する手法。理化学研究所・QunaSys・大阪大学によるプレスリリース
[4] NISQデバイス・黎明期の誤り耐性量子コンピュータ(Early-FTQC)
NISQデバイスは、Noisy Intermidiate-Scale Quantum デバイスの略称であり、数十から千個程度の誤り耐性のない量子ビットをもつ量子コンピュータで、開発や利用法の研究が盛んに行われている。Early-FTQC と呼ばれる黎明期の誤り耐性量子コンピュータは、誤り耐性を持つものの比較的小規模な量子コンピュータである。NISQデバイスよりは利用可能な量子ビット数や量子ゲート数が多いものの、それでも古典コンピュータで解けないような大規模な問題を解く計算を愚直に行うことは不可能であるため、アルゴリズムを工夫する必要がある。
[5] 変分量子最適化
量子回路を変分的に最適化することで、所望の計算結果を得るアルゴリズム。古典コンピュータと量子コンピュータを組み合わせた量子-古典ハイブリッドアルゴリズムの代表的な例。
[6] トロッター分解・量子特異値変換
トロッター分解は、量子系の時間発展を量子回路で記述するための基本的な手法。量子特異値変換は、時間発展を含めたさまざまな量子アルゴリズムを統一的に、しかも効率よく実行することができる手法で、近年注目を集めている。
[7] フェルミオン系
宇宙に存在する粒子は、量子力学的な振る舞いの異なるフェルミオンとボゾンという二種類の粒子に分類される。例えば、電子はフェルミオンであり、光はボゾンである。
[8] フェルミオン・ハバード模型
物質中の電子をモデル化した物理模型の一つ。金属・絶縁体・超伝導体など、物質の様々な状態を記述することができる。
[9] 状態密度
グリーン関数から求められる物理量で、物質中の電子のエネルギー分布を与える。これを利用して、比熱や電気伝導率など物質の様々な物性を調べることができる。
本リリースに関するお問い合わせ先:
QunaSys 広報
pr@qunasys.com